sannigoのアラ還日記

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遠江の天白神社巡り⑱は浜松市中央区笠井町に鎮座する『春日神社』、境内社に『天白神社』

こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

今回の遠江の天白神社巡り⑱としてお参りさせていただいた(2025/03/30)のは、浜松市中央区笠井町に鎮座する『春日神社』です。

 

『春日神社』の創建は今から約540年前の文明14年(1482年)、室町幕府第九代将軍足利義尚公により創建されたといいます。御祭神は武甕槌之男神、経津主命、天児屋根命、比売大神です。先日改築を終えた天満宮の落慶式が行なわれたというニュースを聞いたばかりでした。

 

『春日神社』境内には、青銅製独特の味わいと気品のある雌雄一対の鹿像が台座の上に立っています。さらに、鳥居から社殿にかけてずらりとずらりと並ぶ36基の灯篭群には目を惹かれます。これらの灯篭や鹿像は神社前の道路からも見えるため、興味を惹かれますし、神社の風格を感じます。

 

これまでお参りさせていただいた遠江の神社でもなかなか見ることができない圧巻の風景です。また、鳥居横の案内板にもあるように、最も古いもので1706年(宝永3年)に奉納されたもので、ここまで多くの灯篭が奉納されていることから、やはりこの辺りの産業の大きな発展と繁栄の時期が明治から昭和初期までの期間だったことが想像できます。

 

『春日神社』が創建される以前は、遠江国麁玉郡若倭神社(わかやまとじんじゃ)として、後一条天皇により萬寿2年(1025)再建の棟札を有し、延喜式神名帳に所載されているとのことです。ただ、先日お参りさせていただいた浜名区宮口に鎮座する『八幡神社』も『若倭神社』に比定する説がありとても興味深いです。

 
こちらでは『若倭神社』の御祭神は、春日神社本殿に相殿として合祀され、別殿に八柱神社が祭られているそうです。『春日神社』の境内には12の神社が鎮座されており、中に『天白神社』も鎮座されています。

 

興味深いのは境内社の『天白神社』の御祭神がみちびき、道案内の神といわれる「太田命(おおたのみこと)」ということです。天白神社は謎多き神社といわれるように、御祭神がバラバラなので理解に苦しみますが、こちらの御祭神は猿田彦命の子孫の「太田命」、同じ遠江の磐田市池田に鎮座する「天白神社」の御祭神が「猿田彦」ということでつながりを感じます。

 

毎度記していますが、天白信仰は、本州のほぼ東半分にみられる民間信仰で、その分布は長野県・静岡県を中心とし、三重県の南勢・志摩地方を南限、岩手県を北限として広がっています。信仰の対象・内容が星神・水神・安産祈願など多岐にわたることから様々な研究・解釈が行われています。

 

御祭神も瀬織津姫であったり、猿田彦命であったり、宇加之御魂神、倉稲魂神、天白羽大神であったり、太田命であったり・・・。居住地である遠江の天竜川筋から長野県にかけて多く分布している神社ですので、非常に深い興味を持って天白神社巡りをさせていただいていますが、全くの素人にはわからないことだらけです。

 

ただ、『天白紀行』山田宗睦著では、遠江の天白は「治水・農耕の神」としてとらえているように書かれており、天白神の起源を神麻続機殿神社の祭神、天の白羽にもとめています。

 

こちらの笠井に鎮座する『春日神社』の境内社『天白神社』の天白神に関しては、今回江戸時代から現在に至る笠井の歴史を調べた結果、商売の町に鎮座する神社と感じ『天白紀行』の著者が書いているように「この地が求める神格を元の天の白羽につけ加え変容した」というのが当てはまるのではと考えます。

 

では、さっそく浜松市中央区笠井町に鎮座する『春日神社』を深掘りしていきましょう。

 

浜松市中央区笠井町に鎮座する『春日神社』、境内社に『天白神社』

 

 

春日神社

 

 

鎮座地:静岡県浜松市中央区笠井町1348-1

 

《アクセス》

 

電車・バス:JR[浜松駅]からバスで「笠井新町」下車、徒歩約15分
      JR[天竜川駅]から徒歩で約1時間23分
車:東名高速道路[浜松IC]より約7分
駐車場:鳥居前に数台分、神社裏にも数台分の参拝者用駐車場があります
御朱印:いただけます

 

創建

 

『春日神社』鳥居・参道

 

『春日神社の創建』は、今から530年前の1482年(文明14年)、室町幕府第9代将軍足利義尚(あしかがよしひさ)により創建されたと伝わります。

 

また、創建される以前は遠江国麁玉郡若倭神社(わかやまとじんじゃ)として、後一条天皇により1025年(萬寿2年)再建の棟札を有し、延喜式神名帳に所載されています。『春日神社』創建時「若倭神社」は、豊臣時代の太閤検地で没収され、春日神社に相殿されたそうです。

 

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御由緒

 

由緒書き

 

1541年(天文10年)には、今川義元が社殿を造営し社領を寄付したと伝わり、1648年(慶安元年)、徳川家光から社領五石の朱印が寄進され、浜松城主井上氏の崇敬もあって社殿の造営等を行い明治にいたります。

 

1873年(明治6年)村社、1938年(昭和13年7月23日)には郷社となります。郷社とは、郷村の産土神を祀る社のことです。

 

こういった歴史を持つ『若倭神社』の御祭神は、春日神社本殿に相殿として合祀され、『八柱神社』は別殿に祭られています。現在も行われている「春日神社禮大祭」は、明治時代から昭和初期の間は「若倭神社禮大祭」として大祭が執り行われていたと聞きます。

 

「式内の若倭神社の旧跡を仏堂と爲(な)して庚申を祭るか六所明神は其遺跡なるべし」ともあり、浜松市宮口の六所神社を旧地とする説もあるそうです。

 

御祭神

 

春日神社拝殿と扁額

 

武甕槌之男神(たけみかづちのおのかみ)雷神、剣神 

経津主命(ふつぬしのみこと)剣神、国会鎮守 

天児屋根命(あめのこやねのみこと)出世神、文神 

比売大神(ひめがみ)天児屋命の妻神、炊飯神

 

こちらの4柱は奈良の春日大社と同じ、地域の災難除け、厄除けの神として祀られたものと考えられます。

 

若倭神社ご祭神(合祀相殿)

 

若倭神社の石碑 春日神社由緒書き

 

天香語山命(あめのかぐやまのみこと)農業、備蓄倉神

 

八柱神社(やはしら)別殿

 

天忍穂耳命(あめのおしほ<みみのみこと)農業神 
天穂日命(あめのほひのみこと)農業神 
天津彦根命(あまつひこねのみこと)日・海・風の神 
活津日子根命(いくつひこねのみこと)農業神 
熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)農業神 
田心姫命(たごりひめのみこと)縁結び、夫婦円満 
湍津姫命(たぎつひめのみこと)海洋神 
市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)子守神

 

鳥居

 

春日神社『鳥居』

 

灯篭群

 

灯篭群

 

鳥居から社殿にかけてずらりと並ぶ36基の灯篭群は、これまで見たことのない幻想的な風景です。最も古いものは1706年(宝永3年)に奉納されたものだそうで、古くから厚い信仰を集めていることが物語っています。

 

また、明治から昭和初期までに19基の灯篭が奉納されており、当時の笠井町の商工業の発展が神社への灯篭の奉納を促したものと考えられています。現在もきれいに整備された境内からは、今も地元の皆さまから愛され、大切にされている神社だとよくわかります。

 

また、鳥居横の案内板にもあるように、これほどまでに多くの灯篭が奉納されたことから、やはりこの辺りの明治から昭和初期までの産業の発展と繁栄を物語っていると考えられます。

 

春日神社の灯籠群(とうろうぐん)

春日神社は文明十四年(一四八二) 室町幕府第九代将軍足利義尚(あしかがよしひさ)公が創建、天文十年(一五四一)今川義元公が社殿を造営し社領を寄付したと伝えられている。
参道には三十六基の灯籠群がずらりと並び、最も古いものは宝永三年 (一七0六)に奉納されたものである。
また明治から昭和初期までに十九基の灯籠が奉納されており、当時の笠井町の商工業の発展が神社への灯籠の奉納を促したと考えられる。
   平成二十六年三月 
    浜松市東区役所

(鳥居横の説明板より)

 

手水舎

 

かっこいい龍・手水舎

 

阿吽の狛犬

 

御神木・百度石

 

雌雄一対の『鹿像』

 

拝殿と本殿

 

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境内社の12社 

 

境内には12の神社が鎮座されています。大きなお社と小さな祠がいくつも並んでいますが、どのお社も立派で参拝される方もたくさんいらっしゃるようです。

 

興味深いのは、その境内社の中の一つが『天白神社』で、こちらの御祭神は導きの神といわれる猿田彦命です。

 

さらに【社宮司神社(しゃぐうじ)】でも猿田彦命がお祀りされていますが、都田に鎮座する『社宮神社』同様、本来の祭神はミシャグジ(御社宮司)であると思われます。

 

また、全国的にも数少ない雷除けの神事といわれる「雷神社祭」が行われる『豊靁神社(とよいかづちじんじゃ)』があります。

 

【豊靁神社(とよいかづちじんじゃ)】

 

豊靁神社の鳥居・社殿

 

御祭神:豊靁比売命(とよいかつちひめのみこと)、雷よけの神

 

7月末か8月初めに全国的にも数少ない雷除けの神事といわれる「雷神社祭」が行われます。また、こちらの「豊靁神社」の御札を神棚にお祀りしている氏子の家に雷は落ちないと伝わるそうです。

 

㊧住吉神社、㊨が天神社、境内の梅の木

㊧【住吉神社】

春日神社社殿の右側奥に並んで鎮座する㊧『住吉神社』と㊨『天神社』。

 

御祭神:底筒之男神(そこつつのおのかみ)

    中筒之男神(なかつつのおのかみ)

    上筒之男神(うわつつのおのかみ)

    海の守護神

 

㊨【天神社】

御祭神:菅原道真(すがわらのみちざね)、学問の神

 

 

㊧『金刀毘羅神社』・㊨『津島神社』(右端の大きな社)

 

㊧【金刀毘羅神社(ことひら)】

御祭神:大物主神(おおものぬしのかみ)、海の守護、国づくり

㊨【津島神社】

御祭神:須佐之男命(すさのおのみこと)海、農耕、国土安泰の神
    少彦名命(すくなひこなのみこと)医薬、知識、酒造りの神

 

左から①天白神社 ②八幡神社 ③白山神社 ④社宮司神社

 

①【天白神社】

御祭神:太田命(おおたのみこと)猿田彦命の子孫、みちびき、道案内神

②【八幡神社】

御祭神:誉田別命(ほんだわけのみこと/応神天皇)、武神、諸願成就

③【白山神社】

御祭神:白山比咩神(しらやまひめのかみ)、縁結び、和合、山の神

④【社宮司神社(しゃぐうじ)】

御祭神:猿田彦命(さるたひこのみこと)、みちびき・道案内神

 

左から①猿田彦神社 ②中央稲荷神社 ③金山神社

 

①【猿田彦神社】

御祭神:猿田彦命(さるたひこのみこと)、みちびき、道案内神

②【金山神社(かなやま)】

御祭神:金山彦命(かなやまひこのみこと)天照大神の兄神、金山姫命(かなやまひめのみこと)天照大神の姉神、金属、金運上昇の神

③【稲荷神社】

御祭神:倉稲魂命(うかのみたまのみこと)全国各地に数多くあるお稲荷さんで知られる稲荷神社のご祭神、稲の精霊が神格化されたもので、五穀、食物をつかさどる神、五穀豊穣、家内安全、商売繁盛

 

参照元:笠井意図向(かさいイズム)笠井まつり   

       笠井 春日神社 - 春日連合会 神社名簿

 

大祭日

 

8月14日・15日・16日

 

「神輿渡御行列」

 

150年以上続くとされる伝統と由緒ある行事「神輿渡御行列」は、雅楽の調べにのり厳粛な雰囲気の中行われます。春日神社の神様「武甕槌之男神」が神社から北東約1.5km先の天満宮お仮屋に渡って町内の様子をご覧になるとのこと。この行列の人数は100名近いほどと聞きます。

 

道案内の猿田彦(天狗様)が沿道左右に並ぶ人々の頭上に榊の枝でお祓いしながら道案内をします。お祓いを受けた人々は御神体を乗せたお神輿に向って家内安全や無病息災を祈るそうです。各町内7台の屋台がお供をして町内を練り歩きます。

 

15日の夜、春日神社の花火の合図に「神輿渡御行列」は春日神社をスタートして、天満宮御仮屋に向かいます。16日の夜は還幸(還御)となり、御仮屋から春日神社へ前日と同じような光景が展開され、春日神社大鳥居前に集結した御神体を神殿にお還しした後、本殿に参拝、奉納して各町へ戻ります。

 

この大祭には、春日神社境内の灯篭群すべてに明かりが灯され、幻想的な雰囲気が味わえることもあって多くの人が訪れるといいます。

 

参照元:春日神社(若倭神社)由緒 | 笠井意図向(かさいイズム)笠井まつり

 

鎮座地「笠井」とは?

 

浜松市史の410ページの「笠井荘」について下記のように記されています。

 

 【楞厳寺(りょうごんじ) 春日神社】笠井荘 市内笠井町にあたる。永正(えいしょう)十一年(一五一四)三月今川氏親の将が井伊谷を攻撃したとき、笠井荘楞厳(りょうごん)寺(曹洞宗・いま廃寺)に陣したとある(『重編応仁記』)。笠井町笠井字若林に元郷社春日神社があり、万寿二年(一〇二五)再建の棟札があると伝えている。このほか笠井町には、春日神社が二社ある。笠井荘の鎮守としてまつられた神社であり、藤原氏の荘園であったろう。

 

藤原氏の荘園であったであろう笠井荘の鎮守の神として祀られた神社がこちらの『春日神社』のようです。荘園が始まったきっかけは奈良時代の743年に出された「墾田永年私財法」で、鎌倉時代には終わったみたいですからこの時期にはすでに現在の中央区笠井町にあたる笠井荘が存在しており、人々の暮らしがあったと考えられます。

 

笠井街道

 

蒲地区、長上地区、笠井地区を南北に結び、古くは浜松宿と二俣までを往還していた『笠井街道』は、江戸時代から、笠井村で開かれる「笠井の市」にはこの街道を通り多くの人々が集い、笠井は流通の拠点として賑わっていました。

 

また、姫街道と重なる部分もあって、当時の市野宿も姫街道や笠井街道を通る人たちで賑わっていたといいます。ただ、この旧笠井街道は現在の笠井街道と道筋と多少異なっており、1907年(明治40年)に現在の道筋になったといいます。

 

笠井の市(いち)の由緒

 

笠井に市ができ始めたのは江戸時代、三代将軍徳川家光[在職:1623年(元和9年)~1651年 -(慶安4年)]の時代(1637年)のころからとされています。当時の物、人の流れは、徒歩か舟でした。その為、近隣の村の繁栄の順番は掛塚、二俣、笠井となります。

 

掛塚は大坂と江戸を結ぶ廻船の中継地、天竜川の舟運の荷降ろしの湊として繁栄し、西は京都、大阪、名古屋、東は江戸、東北の中継点となり西から東からの影響を受けていました。二俣は天龍川を舟で南は掛塚まで、北は信州までの中継点として発展をしていたそうです。


しかし、笠井はというと1677年(廷宝五年)の家数は89件、1719年(享保四年)でも112件とまだまだ繁栄途上という感じでしょうか?

 

笠井市の由緒について『川島文書』は、「笠井村は御検地によって四百石を打ち出されたけれども家数も多く農業だけでは渡世ができない村なので、浜松御城下から塩や肴の「売人」を招き表店を貸したりなどして収入を得て年貢の責を果たしてきた。このとき笠井村の無高の百姓も他から「代品物」を借りたり買い出してきた「古着」などを市へ出して渡世の足しとしてきた。これが笠井市の始まり」と述べている。浜松から売人に加え近郷の農民までが木綿布や夜なべの品を市へ持ち出し、塩・味噌・油・米穀などの「代品替」をするようになり慶安元年(1648年)浜松城主太田備中守時代の前後、最も繁栄を極めたといわれる。
~中略~
開設以来三百年この間いく度かの試練を経、明治を迎えて文明開化の流れ運輸交通の発達に伴い徐々に市場の様相も変わっていった。明治二十二年東海道線の開通、そして翌二十三年隣接桓武へ遠陽市場の開設、またこうした中にあっても一歩一歩近代的な商店も育っていったが、やがて市も大正と共に衰退していった。いまに遺るものは一月十日の笠井観音のダルマ市、また当日早朝しめやかにとり行われる市神様の祭典が昔をしのぶよすがとなっている。

(『浜松市の史跡(続編)/昭和52年12月1日発行)

 

こちらの文章から想像するに、農村だった笠井は交通至便な地でもあったため、農業だけでは暮らしが厳しいということで、浜松城下から塩や肴の売人に軒を貸したりして収入を得て年貢としていたことが、笠井の「笠井市」の始まりだったようです。

 

参照元:浜松市立中央図書館 / 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

 

上記の内容から笠井の市や笠井の発展について考えてみましょう。

 

江戸時代

 

"浜名湖北の「金指市」、北遠の「二俣市」とともに江戸時代、遠江における流通経済の拠点として役割を果たした交易の場であった。"とあります。

 

笠井市の繁栄はまず一番に塩と魚(肴)の販売を藩主から許可されたことと言えそうです。塩は命をつなぐ大切なものですが、浜松藩では、塩は塩町と笠井の市でしか売ることができなかった専売品だったようです。

 

近隣の村の住人にとっても、天龍川を使って信州から来た人にとっても、わざわざ塩町まで行かなくても塩が買えるということで笠井の市には多くの人が集まり始めました。

 

人が集まることで、塩や魚だけでなく農産物を売ったり、さらに、農業の傍ら夜なべをして木綿布や縄、むしろ、草履なども市へ持ち出して、生活に必要な塩や味噌、油に米穀なども売るようになり、交通の便の良さから東は藤枝、北は二俣、佐久間、さらに信州からも人が集まり繁栄していったようです。

 

また、細江や舞阪、名古屋からも商人が集まるようになり、月に六回開かれる市「六斎市」には通りの住人宅の軒先を借りたりして商売をしていたそうです。

 

六斎市

 

笠井は南の「浜松宿」、北の「二俣の市」の中間に位置し、江戸時代には流通の拠点として大きな役割を果たしました。市は「六斎市」といい、毎月1・5・10・15・20・25日の6回開かれていたといいます。

 

市の当日には、笠井や近郊の人はもちろん、浜松の商人も多く訪れ、道の両側にある店を借りて商売をしたといい、特に、塩は浜松の塩町の専売だったので、多くの人が塩を求めて訪れ、笠井の市の繁栄の大きな要因となったとされます。ちなみに、浜松の塩町の塩は浜名湖でとれた塩で佐久間町浦川あたりまで用いられていて、他所からの塩は用いてはならないとされていたそうです。

 

また、屋号に帯屋(おびや)という仕出し屋、鍋屋という呉服店、油屋という洋品店など、一見すると別の店のように思われる屋号があるのも特徴である。

(浜松市散策マップ「笠井街道をゆく」より)

 

帯屋のHP( よくあるご質問 | おびや   )では、「仕出し屋なのに屋号は帯屋なのはなぜ?」という疑問に以下のように答えています。

 

江戸時代、笠井街道に賑やかな市があり、そこで帯を売っていた事から屋号が「帯屋」となりました。明治になって笠井の市は遠州随一の市になりました。着物から洋服の時代への変化と共に、帯商いから魚・仕出し商いに変わりましたが、屋号はそのまま「帯屋」を引き継ぎました。笠井の市にあったお店で現在も営業しているのは当店のみです。
名字のない江戸時代、『帯屋』という屋号は今で言う名字の代わりとなっており、明治以降、魚屋に転換(明治10年)しても、仕出し屋(昭和44年)になっても変わらず現在も守り続けているのであります。

 

なるほど、名字のない時代の屋号が明治以降も生き続けているということなんですね。きっと鍋屋、油屋もこのように江戸時代の屋号を使い続けているということでしょう。

 

江戸時代から多くの人が笠井街道を通り「六斎市」を訪れ、笠井の綿織物は発展しました。その市が引き継がれ現在も毎年10日は観音様の縁日と初市が開かれ多くの人が訪れます。

 

明治時代

 

1891年(明治24年)頃からだるまを売り始め、出店でだるまを買い観音様で左目に墨を入れ、御祈祷していただくのが習わしであったとのこと。

 

大正~昭和初期

 

西ヶ崎から笠井まで「軽便鉄道」の笠井線、中野町線が走っていたこともあり、大いにに賑わっていたことが想像できます。

 

笠井線は大正3年(1914年)〜昭和19年(1944年)まで朝5時から夕方5時まで1時間1本の客車が走っていたといいます。「万斛(まんごく)」「女学校前(現笠井中中学校前)」に停留所があったと聞きます。

 

笠井縞とは?

 

日本で綿作が全国各地に広まったのは江戸時代中期以降です。中でも遠州は良質の綿産地で、全国に先駆けて機織(はたおり)が盛んな地域として知られていました。

 

特に1845年浜松藩主の井上河内守正春が藩士の内職として機織を奨励したことから、ますますこの地で独特な縞木綿(しまもめん)と呼ばれる織物が生まれ、特徴を活かしながら発展したそうです。

 

当時交易の盛んだった笠井の市で取引されたことから笠井縞(かさいじま)と呼ばれるようになり、地域の綿織物はやがて取引市場の広がりから「遠州縞(えんしゅうじま)」と総称されるようになったといわれています。

 

参照元:浜松市散策マップ「笠井街道をゆく」より

 

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最後に

 

今回の遠江の天白神社巡り⑱では、浜松市中央区笠井町に鎮座、今から約540年前の文明14年(1482年)に足利義尚公により創建されたと伝わる『春日神社』をお参りさせていただきました。御祭神は武甕槌之男神、経津主命、天児屋根命、比売大神です。

 

境内の青銅製の雌雄一対の『鹿像』が鳥居前の駐車場から見えて、さすが春日神社と感嘆の声をあげてしまったのですが、鳥居の向こうにずらっと並ぶ灯篭もさすがの春日神社というかんじで貫禄があります。

 

そして、広い境内でこちらの境内社である『天白神社』を探すのですが、多くの境内社が春日神社社殿の右にも左にもと鎮座しており、やはりこの地の繁栄を象徴しているなと感じました。

 

境内社の『天白神社』の御祭神はみちびき、道案内の神といわれる「太田命」、天白神社の御祭神というと瀬織津姫であったり、猿田彦命であったり、宇加之御魂神、倉稲魂神、天白羽大神であったり、太田命であったりで悩ましいのですが、同じ遠江の磐田市池田に鎮座する「天白神社」の御祭神が「猿田彦」ということで船運で栄えた町というつながりを感じます。

 

『天白紀行』山田宗睦著では、遠江の天白は「治水・農耕の神」としてとらえているように書かれており、天白神の起源を神麻続機殿神社の祭神、天の白羽にもとめています。

 

こちらの笠井に鎮座する『春日神社』の境内社『天白神社』の天白神に関しては、今回江戸時代から現在に至る笠井の歴史を調べた結果、かっては藤原氏の荘園であったであろうこの土地は農業だけでの暮らしは厳しいが、交通至便な地であったことから、藩主から塩と魚(肴)の販売を許可されたことで繁栄した町と言えそうです。

 

当時の物、人の流れは、徒歩か舟でした。大坂と江戸を結ぶ廻船の中継地、天竜川の舟運の荷降ろしの湊として繁栄した掛塚からの船の便が良いことを生かして繁栄した笠井。西は京都、大阪、名古屋、東は江戸、東北の中継点となり西から東からの影響を受けていたといいます。

 

こちらの天白神社の創建などは不詳ですが、遠江の天白は「治水・農耕の神」というよりも商売の町に鎮座する神社として西から東からの文化、信仰の影響を受けているのではないでしょうか?

 

ですから、こちらの天白神は『天白紀行』の著者が書いているように、「この地が求める神格を元の天の白羽につけ加え変容した」というのが当てはまるのではと素人は考えます。

 

最後までお読みいただきありがとございます。では、またです。